オモロ・トリガー

クロノ・トリガーはオモロい。だからオモロ・トリガー

みんなが好きなことばかりやってたら、社会が回らなくなる……のか?

イケハヤさんの影響は強く受けていて、わりと自由気ままな精神で生きているオモローだよ。

今回は以下のエントリーを見て思ったことを記事にしてみました。

www.ikedahayato.com

ここで主張されていることは、これからの時代をより賢く生きていくための基本的な心構えとでもいうべきものだと思う。

僕は今は会社員として生活をしているんだけど、次のような考え方には大変共感するものがある。

  • そもそも、時間を切り売りするようなワークスタイルからは卒業すべき。学生のバイトじゃあるまいし。
  • 変に人間ががんばるから、イノベーションが起こらず、生産性も上がらないということを理解すべき。

まさにその通りだなぁと思う。

ところが、現実の優しい世界に生きていると、上記のような言葉や表現は反発を食らいやすいところがあって、現実の人間関係で主張していくのは難しいなと感じていたりもする。

あ、優しい世界というのは、皮肉です。

表面上はお互いを気遣いあって、辛いことや苦しいことがあっても「みんな大変なんだから、頑張らなくっちゃ」なんて思っちゃって、単なる束縛を仲間意識という美徳に変換しちゃったりなんかしている現実の優しい世界。

そこで、「そんなに頑張ったってさ、生産性もあがらないし無駄だよ。意味ないことはやめて、もっと気楽にやりなよ」とか言っちゃうと、サービス残業しまくりで何とか仕事をこなしている同僚の皆から総スカン食らうこと間違いなしだ。

現実はむしろ反対で、残業している同僚や上司を見ると、「あぁ、あいつ今日も頑張ってるなぁ。俺も頑張ろう」っつって、必要以上に頑張っちゃう。

もうさ、その人たちの中では仕事を「頑張ること」や、「しんどいけど皆で乗り越えていく」ってことが、今のこの社会の常識であって、大人の対応であって、当然のこととして疑問にすら感じていないんだよね。

彼らが言う「頑張る」という言葉の中には、仕事はしんどいもので、人生は苦労の連続で、みんな同じようにしんどい思いをしているんだから、自分だけ楽に生きようなんて虫のいいことはない、と、そういうニュアンスが多分に含まれていると思う。

だから、みんなが頑張る。

だから、みんなで頑張る。

それによって、生産性は下がり、時給も下がっていくというのに。

だから、僕は会社員ではあるものの、彼らのように「頑張る」ことが出来ない。

正確には僕もがんばってはいるんだけど、彼らが言う「頑張る」とはまた違うニュアンスでがんばっている。

たまに残業していると「頑張ってるね。無理しないでね」とか「仕事師だね」なんて声をかけられるけど、僕からすると「頑張ってるね」は心外だし、余計なお世話だ。

僕はやりたいことをやっているし、やりたくないことはノラリクラリと避けて通ってるつもりだ。

あくまでも、自分がやりたい仕事をやりたいようにやっているだけ。

自分のために、好きなことをやっているだけなのに、「頑張ってるね」なんて言われると、僕が頑張っているみたいじゃないか。

彼らのように、しんどい気持ちを耐えてまで時間を切り売りして、会社に尽くしているわけじゃあ絶対にないのにさ。

そんなわけで、僕はイケハヤさんの主張には全面的に賛成なのである。

ただし、一点だけ疑問はある。

果たして、このような考え方は「介護・福祉」の分野においても有効なものなんだろうか?と。

介護・福祉は特殊な世界?

介護や福祉のサポートを必要としている人は現実にけっこう存在している。

なかなか表に出てこないだけで、僕らが最新のテクノロジーやサービスに触れているあいだも、一般社会からはほぼ隔離された特殊な世界の中でひっそりと生活している人たちがいる。

そういう人たちに必要なのは、21世紀らしい最先端のテクノロジーやオピニオンではなくって、単に寄り添うことだ。

介護を必要とするのは高齢者だけど、福祉にまで抽象度を上げてやれば老若男女すべての人が対象となる。

彼らにも人生があって、当然僕らと同じように1日24時間の生活がある。

彼らには規則正しい生活や食事、睡眠の質の向上と言ったイマドキの意識の高い人たちが実践するライフハック的な発想なんて微塵もない。

ただただ、今までの人生の延長線上で生きていくことしかできない人たちだ。

それは当然のことで、彼らは本を読まないし、当然インターネットに触れることもない。

だから、過去の自分の経験から、今や未来を生きていくしかないのは言うまでもなく当たり前のことだ。

そして、彼らはそのことに疑問を抱いていない。

彼らはイマドキの意識の高い人たちのように、人生をよりよくしよう、社会を、国を、世界を、地球を、よりよくしよう、と、そんな風には絶対に考えない。

ただただ、過去の生活があって、これからも同じように続いていく。それだけだ。

そして、それはそれで別にいいことだと僕は思う。

先述したイケハヤさんの意見もそうだけど、自由に生きようってのは、基本的には人間の多様性を認めることからすべてが始まるものだ。

多様性を認めないということは、レールに乗った人生を生きよということになって、すべての意見が矛盾してしまう。

だから、自由に生きるってことは、自分以外の多様性のすべてを肯定するということになると思う。

そうすると、途中に書いたけど、僕の同僚たちが必至こいて頑張っている現状というのも、彼らが本当にそう望むのなら肯定されなきゃならないものだ。

ただし、介護や福祉を必要としている人たち、とは違って、僕の同僚たちは自分で考えて、行動して、新しい価値観を受け入れる、という手段を選ぶことも出来る。

僕がもったいない生き方をしているなぁと思うのも自由だし、彼らがその生き方を選ぶのも自由だけど、知らず知らずのうちに何者かに洗脳されて、知らず知らずのうちにしんどい人生を選択しているのだとしたら、僕はなんとか彼らを軌道修正してやりたいなぁとは思うのだけど、それもこれも、あれもこれも、とにかく全部自由だ。

しかししかし、福祉のサポートを必要としている人たちには、そもそもこういったある種の哲学は一切関係がない。

何をどう深く考え込んだって、彼らが必要としているのは単に過去の自分が必要としたもので、これからの人生もすべて過去からの延長線上に存在していなければならない。

そうでなければ、途端に対応力を失って、パニックに陥ってしまうから。

意識の高い人は福祉に向いてない?

福祉のサポートを必要としている人というのは、それこそ人間の多様性を認められなきゃとても関わっていけないような、本当に個性的なキャラクターをしていて、たぶん業界の外の人からは想像も出来ないような生活をしてる。

このような人たちと関わっていくなかで、「意識の高さ」というのは結構邪魔になる。

特に面倒なのは、意識の高い人がまき散らす「おせっかい」だ。

意識の高い人は、よりよい生活を実現するためにありとあらゆる情報にアクセスして、昨日より今日、今日より明日といった具合に、どんどん環境を変化させていく。

それを可能にするのは、彼らに備わっている高い知性と適応力だ。

高い知性と適応力があるからこそ、新しい考え方や行動、環境の変化に柔軟に対応していくことが出来る。

ところが、福祉のサポートを必要としている方々がそのような柔軟性を発揮することは難しいことが多い。

こちらが良かれと思ってしたことも、彼らにとってはすべて余計なお世話であって、こんなことをされるなんてもうこんな所にはいたくない、という考え方をしてしまう。

だから、おせっかいを焼きたくなっても、あくまでもすべては彼らの個性であって人間の多様性なんだと思って、あたたかく見守っていく心のゆとりが必要だ。

福祉のサービスを受ける被擁護者の方々が求めているのは、勢いのある斬新な変化よりも生活の安定だ。

このような世界で仕事をしていくのに向いているのは、愚直に被擁護者と向き合うことができて、やたらに思考の抽象度を上げず、具体的な生活を支援していける人間である。

意識が高い人というのは、必然的に思考の抽象度が高くなっていくものだ。

人から社会へ、社会から世界へ、世界から地球へ、地球から宇宙へと、思考の幅が拡がっていく。

福祉に必要なのはせいぜい社会に対する考察までだ。

そして、被擁護者にとっては、社会に対する考察すらどうでもいいこととなる。

あくまでも、彼らの生活を具体的に支援できるかどうかに尽きるのである。

生産性も効率もない世界?

このような世界では、生産性もクソもないという話になる。

まぁ、クソは毎日生産されているけど、それは別件だ。

そもそも、特別に何かを生産しているわけじゃない。

1日24時間の生活を、求める人の数だけ支援していく。それだけだ。

どれだけ生産性を上げようと、効率を上げようとも、1日24時間、1年365日の生活を圧縮することは出来ない。

何をどうしたって、絶対に24時間の継続的な支援が必要だ。

そして、それが可能なのは誰か?って、それはもう言うまでもないことだ。

ロボットやAIに支援を任せることも将来的には可能になるのかもしれないが、24時間ある生活のすべてをロボットに任せてしまっていいものか?

ひとりでは生活できない爺さんや婆さん、兄ちゃん姉ちゃん、あの子とその子がいたとして、「ロボットが見てくれているから大丈夫」と言ってしまっていいものか?

どうしたって、24時間ある彼らの生活には、常に人間が関わっていなければならないのではないか?

世界をよりよくしていくのは、「意識の高い人」たちだと思う。

それは間違いない。

けれども、意識の高さも低さも関係なく支援を必要とする人たちがいて、意識の高さも低さも関係なくその人たちを支援する人たちがいる、というのは大切な事実だ。

働き方改革やイノベーションといった現代的な文句をうたっているとき、そのような人たちの存在が忘れられてしまっているような気がしてならない。

まとめ

さぁここまで勢いで書いてしまったのだけど、僕は結局何が言いたかったのか?

ぼんやりしているけど、次のように表現出来るかもしれない。

「ひとりでは生きられず、人からの支援を必要としている人がいるのに、自分のことばかり考えていていいのだろうか?」

ん?でもなんかこれって、僕が残念に思ってる同僚の彼らと似たような思考だな。

社会には苦しんでいる人がいるんだから、その人たちを支援するためにも、自分が楽しむことばかり考えてちゃいけない。彼らもまた、社会の一員なのだから!って。

あぁ……あかん、完全に仲間意識という美徳の束縛にハマってた。

これではまさしく、イケハヤさんが言うように思考停止状態だ。

あぶないあぶない。

みんながやりたいことをやって生きていくことができる社会と言ったとき、そこには介護や福祉のサポートを必要とする人たちも含まれているんだ。

中には、どうせ無理だからと諦めて現状を受け入れるしかない人だっているかもしれない。

まずは僕らがしっかりと人生を楽しんで、「やりたいことやってりゃいいんだよ」という価値観を当然のことと思えるようになれれば、本当の意味ですべての人が自由に生きられる社会がやってくるのかもしれない。

みんながやりたいことだけやってたら社会が回らなくなる?むしろ反対で、みんながやりたいことやれる社会だからこそ、社会が回り、全ての人が自由に生きられるんだ。

要するに、介護・福祉の世界にだって、意識高い人がもっともっと必要なんだってこと。

がんばろっと。(頑張るわけじゃない)

大人になるにつれて大事な才能を失っていく

真面目で厳しいオジサンより、チャラくて勢いのある若者の方がコワイ。

何がコワイって、この先、凄いことをやらかしそうな雰囲気がコワイのだ。

コワイと言いつつ、それは悪いことではなくて、むしろ、その若さや怖いもの知らずの勢いに対する憧れに近い。

そのような憧れが、僕に出来ないことをやってのけてしまう、先を越されてしまうという焦りや危機感を生み、要するにコワイと思ってしまうというワケだ。

一方、真面目で厳しいオジサンには、そういったコワサを感じることはない。

なぜかというと、そういう人たちの未来は簡単に予想出来てしまうからだ。

  1. 職場では真面目に仕事に取り組んで、順調に出世していくだろう。
  2. 資格の勉強も欠かさずに、たまに取りこぼすこともあるだろうが、最終的には必要とする資格を網羅するだろう。
  3. ゆくゆくは、それなりの職責を与えられ、座るべきイスに座っているだろう。

もう、すべてが予想の範疇だ。

だから、そういうオジサンたちにコワサは感じないし、憧れもない。

しかし、オジサンの中にも未来が予想できない勢いを持っている人もいる。

それはつまるところ、僕がコワサを感じているのは実際の年齢ではなく、心の若さということなんだと思う。

若い心を持ったオジサンは、仕事を遊びのように楽しんでいて、凄まじい行動力で日々を過ごしている。

朝から東京に飛んだと思ったら、昼には香川で仕事をしているような強烈な行動力とパワーを持っている。

そういうオジサンの原動力は、それをやって楽しいかどうか、面白いかどうかだ。

何かに没頭できるのは、心が若い証拠だ

何かひとつのことに没頭できることは、立派な才能だ。

そしてそれは、子供の頃には誰もが当たり前に持っていた能力なのに、大人になるにつれて失っていく。

実際、僕も子供の頃は自分がやりたいと思うことに無我夢中でハマっていた。

  • ハイパーヨーヨーにハマりすぎてお年玉の3万円を1日で消費したし、
  • ヒールリフティングがしたくて家の庭で日が暮れるまで練習したりもした。
  • 絵が上手になりたくてオリジナルのトレーディングカードを作ったこともある。

まぁアホみたいなエピソードだけど、子供らしい実に勢いのある日々を過ごしていたと思う。

色んなことに興味を持って、何かの見返りを求めることもなくただハマる。

こんな簡単なことが、今はできない。

  • それをやってなんの意味があるのか?
  • 誰かの役に立つのか?
  • 仕事や将来の生活につながることなのか?

そんな面白くもないことを考えてしまって、素直に没頭することができない。

要するに僕自身が、コワくないオジサンになってしまっているんだ。

今の僕には、トレーディングカードを自作するなんていう無駄な遊びは絶対にできない。

  • キャラクターのイラストを描いて、
  • 名前を決めて、
  • 能力を決める。

これ、今、出来る人いる?無理でしょ?こんな無駄なこと。

でも、子供の頃の僕はできた。自慢げに学校に持っていって、友達に披露したりもしていた。

黒歴史と言えば黒歴史だけど、僕はそういう気恥ずかしさよりも、子供の頃の自分の没頭力に関心するばかりだ。

今、僕は心のリハビリのつもりでゲームばかりやっている。

家に帰ったら仕事のことはきれいさっぱり忘れてしまって、流行りのゲームに没頭する。

楽しいと思うことに制限を課して将来のために努力するなんて、人生がもったいない。

職場にいる能天気な若者をバカに出来るか?

職場には色んな人がいるけど、一人くらいは、能天気でバカな若者がいたりはしないだろうか?

以前の僕は、そういう奴にキツくあたっていた。

それが一種の親心であり、本人のために必要なことだと思っていたからだ。

具体的には以下のようなことをしてきたのだけど、今にして思い返すと、本当に彼らには申し訳ないことをしたと思う。

  • 朝礼前に、今週のジャンプの感想を語り合っていた奴に冷たい視線を送り黙らせる。
  • 難しい問題を前にしてヘラヘラ笑っていた奴に、もっと真剣に考えろと一喝する。
  • 今日が何日何曜日かを即答できなかった奴に、それが頭に入っていないなんて仕事をする気があるのかと重箱の隅をつつく。

ひどい先輩もいたもんだと自分自身が哀れに思えてくる。

現実には、僕のように何も没頭することがない無能なオジサンよりも、ジャンプの感想を語り合える彼らの方が人生を楽しんでいるという点で優秀だったのかもしれない。

極端なことを言っているようで、最近の僕は本気でそう思っている。

しっかりと遊ぶことが出来る彼らは、まだまだ何かに没頭する能力を失っていないということだ。

能天気な若者はコワイ。将来何をしでかすか分からない、大きな可能性を秘めている。

僕もまた、若い心を取り戻し、人生を楽しんでやろうと思う次第である。

僕がブログを書く理由

ブログって何のためにやっているのかという問題。

僕の場合は実に抽象度の低い発想なのだけど、自分が普段考えていることをアウトプットして、他の誰かに知ってもらいたいから。

下手な表現だけど「かまってちゃん」ってやつなのかもしれないね。

もちろん知ってもらうだけではなくて、僕の意見を読んで、批判なり共感なり、何らかの反応がほしいとは思ってる。

そうすると、それに対して僕も何らかのリアクションが出来るかもしれない。

けっこう議論好きなところは昔からあって、何かとややこしい話をしたがる悪い癖がある。

現実の場面でこういうことをしていると、何だあいつ?気持ち悪いやつだなぁと思われておしまいだけど、インターネットの中でなら別にそう思われたところで特に問題は起こらない。

1000人にキモイと思われても、1人の共感してくれる人を発見することの方が価値は高い。

そんなことを考えつつ、今もこうして記事を書いているところだ。

アウトプットを繰り返していると、多分だけど当初の自分の脳内にあった思考よりも、さらに洗練されたイメージが出来上がると思う。

実際、自分が考えていることを他人に聞いてもらう機会は少ない。

実生活の中では、狭い人間関係の中で自分の本音を包み隠さずに述べることって、けっこう難しいのだ。

けれども、ブログをやっていると、そういう鬱積した自分の内面を、恥も外聞もなくさらけ出すことが出来てしまう。 (それが暴走した結果、炎上してしまうというのがありがちな傾向なんだろうけど)

しかも、僕はこのようにブログなどを通して自分の意見を発信することによって、実生活にもいい影響が出てくるのではないかと画策している。

どういうことか?それは次のような理由だ。

  1. 頭の中で考えているだけでは、自分の意見の盲点に気付けない
  2. 盲点とは自分の知識、意識の死角になっている部分で、スコトーマともいわれる
  3. スコトーマに気付くことはそれ自体が矛盾しており、困難だ
  4. 自分にとっての死角は、他人が見ると鮮明に見える視点だったりもする
  5. ブログ等で不特定多数の人に意見を発信することによって、スコトーマに覆い隠された新たな視点を得ることができる、かもしれない
  6. こうした経緯でより洗練された意見を搭載して、なかなか失敗の許されにくい実生活で発言や行動を起こしていく

とまぁこういう流れを夢想していたりするワケだ。

自分で書いててもびっくりするくらい理想的なステップアップの手段だと思う。

実際には、それだけ多数の人の目に触れ、なおかつ意見を頂くなんてことは難しくて、そこまで辿り着くのに様々な試行錯誤が必要にはなるんだけども。

さっさと結果がほしい僕には面白い世界だ

僕は基本的にめちゃくちゃ飽きっぽい。その上、やったことに対するレスポンスを気長に待っていられない性格だ。

例えば、努力を続けてさえいればいつかそのうち目標に達することができる、という正論中の正論も、僕には実行不可能な難易度ベリーハードの態度だ。

  • 腹筋を続けていれば、いつか夢のシックスパックになれる
  • 英語の勉強を続けていれば、いつか喋れるようになる
  • たくさん本を読んでいれば、いつか夢がかなう

そんなんムリ。待てない。

はやく結果がほしい、結果が出るのを待っていられない。待っているうちに飽きてほかの方法を考えてしまう。その繰り返し。

なんだ、結果が出ない奴のありがちなダメダメパターンじゃないか……なんて思わないでね。わかっちゃいるけど、直らない。

性格が直らないというのは、根本的にはその性格を直す必要がないと思っているからで、白状するけど、僕は自分のこういう性格がわりとお気に入りだったりする。

そのような性格を鑑みても、ブログはとっても相性がいいツールであり遊びだ。

なぜなら、ブログは結果が出るのがめちゃくちゃ早いから。いちいち待っていなくたって、読まれる記事はあっという間に読まれるし、読まれないものはいつまでたっても読まれない。

だから、今発信したものに対する待ちの時間というのが、非常に少なくてすむのだ。

結果がはやくフィードバックしてくるから、その結果を見て次の行動にもつなげやすい。たくさん読まれたのなら読まれた理由を分析できるし、反対にまったく読まれない場合にも、なぜ読まれなかったのかを分析して、次はまったく別の行動をとることができる。

そうして速いテンポで試行錯誤していくことができるツールの代表選手がブログってことだ。

まとめ

ブログを書くことで、自分の意見を強化することができる。

意見なんて、自分の頭の中で考えているだけじゃあ大して洗練されることはない。

意識の死角になっているスコトーマを見つけるためにも、ブログはとっても有効なのである。

ちなみに、知っている人はすでに、あ、こいつあの人からの影響を受けているな、と気づいていると思うので最後に紹介してみる。

圧倒的な価値を創る技術[ゲシュタルトメーカー]

圧倒的な価値を創る技術[ゲシュタルトメーカー]

苫米地さんの本はたくさんあるけど、内容的には重複している部分が多い。

だから、まだ読んだことがないよという人は、とりあえず何か一冊をまずは読んでみてほしいな。

人生の悩み、仕事の悩み、人間関係の悩み、生きているとたくさんの悩みがあって、息苦しさを感じることってあるでしょ?

そういった悩みの解決の糸口が得られるのが、苫米地さんの数々の書籍だ。

読みだしたら納得できる部分がたくさん見られて、次々と「知りたい」欲求が止まらなくなって、結局何冊も何冊も読みこんでしまう。

上手いことやられてるなと思うのが、大部分がKindle Unlimitedの対象商品になっているから、会員にさえなっていれば月額980円で大量に読み込めてしまうところ。

そうすると、Unlimited対象外の本にも興味が向いて、購入に至るというワケ。

もちろん、その価値は確実にある。

僕は悩んでばかりいる性格だったけど、気が付くと、人生をいかに楽しむかということばかり考えるようになってた。

その結果、今まで見えていなかった世界の広がりを頭の中で感じていたりもする。

それは、30歳になってそれなりに色んなことを経験して、考えてきたからこその到達点で、何も苫米地さんからの影響がすべてではないと思うのだけど、それでも多大なる影響を受けているのは間違いない。

こんなこと書いてると信者みたいでイヤだけど、絶対に何らかのいい影響を与えてくれる人だと思うので、最後に紹介してみた。

リーダーの育成より、介護士の心身のケアが急務だと思うワケ

この記事を見て勢いで書いてしまった。

東京新聞:介護現場でのチームケア リーダー職の育成急務:暮らし(TOKYO Web)

介護の現場は辛いという話をよく聞く。

まぁ実際辛いところも多いんだけど、しっかりマネジメントすれば解決する問題も多々あると思うんだな。

はたして、今、介護の職場に求められるものとは何なのか?そもそも何がどう辛いというのか?

現場で経験を重ね、リーダー職の経験もある僕が解説しよう。

 まず、介護が大変だと言われる主な要因は次のようなことだ。

  1. 力仕事がきつい
  2. 夜勤がきつい
  3. 行事の準備がきつい
  4. 人間関係がきつい
  5. 待遇がきつい
  6. 高すぎる目標がきつい

1.力仕事がきつい

介護は体力勝負だ。足腰の立たない利用者さんの身体を支え、安全に移動させてやらねばならない。

そして、そのほとんどが排泄による移動だ。自力での排泄が不可能な人であっても、僕らの力を貸し出すことによって、半分自力、半分他力という状態でトイレに行くことができる。

しかし、もちろん僕ら介護職員が見ているのは一人や二人ではない。

利用者さんたちの足腰の粘りも千差万別。協力的な人ならまだましで、何もないところに座ろうとして体重をかけてくる人もいる。(もちろん本人は無意識だ)

50キロ前後ある人間の体重を支えているのは、はっきり言ってしんどい。

しんどいが、やっていることはトイレだ。トイレを我慢させることはできないから、1日に何回も力仕事が発生する。

2.夜勤がきつい

夜勤になると、基本は一人で全員を見なければならない。

夜勤の勤務時間は8時間から16時間。はっきり言って、夜中の16時間労働なんて人間のやることじゃない。

それでも、誰かがやらないと生活できない人たちが存在するのも事実。

彼らも自分の生活がかかっているのだから、いちいち遠慮なんてしていられない。

何度も何度も起きてはトイレをし、徘徊し、奇声もあげる。

力仕事に加えて、長時間労働による睡眠不足が過大なストレスを生む。これを何年も耐え抜くのはなかなかにヘビィだ。

3.行事の準備がきつい

ほぼ毎月のようにやってくる施設内行事。その内容の是非はともかく、必ずついてまわるのが事前準備と事後処理だ。

日々の業務に追われるなかで、これらの仕事を正規の労働時間におさめていくのは難しい。

もし可能とするなら、それは陰で何らかのサービスを省いているか、記録を盛るなどのズルをしているかだ。

企画書づくり、飾りつけ、ボランティアの段取りなどで、残業を繰り返すハメになる。

終わってからも、報告書の作成が必要で、気がつけばまた次の行事が間近に迫っている。

そんな状況でも、利用者からの訴えが止まることはない。

悲しいのは、真面目な介護職が多く、残業代の請求すらしないパターンが常態化しがちなところだ。

能力の有無ではなくて、そもそもできるはずのない業務量だと職員自身が知らねばならない。 

4.人間関係がきつい

介護の仕事は、日常生活の支援だ。

こういうと皆さんはどういった業務をイメージするだろうか?

具体的には次のようなことを毎日繰り返していくことになる。

  • 食事
  • 排泄
  • 入浴

そして、それらに関わるすべての身体的、精神的な活動だ。

要するに普通の家庭環境の再現を目指しているわけ。

それ自体は介護施設が目標とするひとつの理念なわけで、意義あることではある。

ところが、家庭環境を目指すとなると問題となるのは、職員同士の価値観の違いによる衝突だ。

なぜそうなるのか?普通の家庭をイメージして、ちょっと考えてみてほしい。

例えば極々普通の核家族(夫婦と子供が暮らす世帯)があるとして、子供は両親にとって養護すべき存在となる。

そして、未来に向けて様々な教育やしつけを実践するだろう。

しかし両親は当然、父と母の二人がいる。そして夫婦といえども、子供を思う価値観は決して同じものじゃあない。

介護施設に当てはめてみると、職員が両親であり、利用者が子供という関係になる。

高齢者と子供を一緒にするなんて、と思うかもしれないが、養護すべき存在という意味で、役割が同じということだ。

ともかく、このような環境が再現されたとき、当然そこで巻き起こる人間関係の難しさもセットでついてくる。

夫婦が離婚するように、職員同士もまたぶつかり合う。

利用者に対する世話のやり方で揉め、片付けや整理整頓など家事のやり方でも揉める。

普通の家庭で起こる揉め事の拡張版がそこにはある。

これが仕事の悩みなのか?と、介護の職場を経験したことのない方は思うだろうが、はっきり言ってこういもんである。

このような状況をおさめるのに、僕はリーダー研修が効果的とは思わない。

むしろ、リーダー研修によってさらに価値観の溝が拡がるのではないか、とすら思う。

家庭の揉め事をおさめるのに必要なのは思いやりや歩みよりであって、高い志や優れたリーダーシップではない。

5.待遇がきつい

これに関しては言うまでもない。もはや介護は低賃金の代名詞だ。

6.高すぎる目標がきつい

介護士は、利用者の生活の質が少しでも向上するようにと、些細なことから懸命に助太刀を致すのだ。

けれども、そういった努力が報われることはほとんどない。

医者でも治せない病気や加齢に伴う衰えがあるからこそ介護が必要なのに、僕ら介護士に求められるのはある意味それらの治癒だ。

  • 食べられない利用者に食べてもらう
  • 歩けない利用者に歩いてもらう
  • 眠れない利用者に寝てもらう
  • 自力で排泄できない利用者に自立を促す

すべては僕らの頑張りというより、利用者自身が頑張れるかどうかにかかっている。

できたりできなかったり、その日の精神状態などによっても違ってくる。

でも、介護士には常に高い目標が求められており、なぜできないのか?どうすればできるのか?いつもその答えを要求される。

リーダーが解決できることか?

介護士が不足していたり、離職率が高かったりするのは、以上のような大変さを日々感じながら、きつい業務に耐えているからだ。

それらの不満を根本的に解決できるのは誰なのか?少なくとも、リーダーではない。

リーダーも所詮労働者であって、それ以外の職員と特別に違いがあるわけではないし、他のみんなができないことは、リーダーにだってできない。 

今回述べてきた介護のキツさをいっぺんに解決できる人は他に存在する。それは誰なのか?

当然、経営者ってことになる。

適切な目標を随時設定して、業務体制の見直しを怠らなければ、いくらでも働きやすい環境は用意できる。

それがなぜ必要なのか?

それは、よりよい介護を提供するための本質的な要件は、働く職員のメンタル管理にあるからだ。

介護を提供する職員の心が満たされていて、幸せを感じていることが必要だ。

自分が幸せだからこそ、その幸せを目の前の高齢の方々に少しでもお裾分けしたいと思える。

高齢者の憂いや悲しみにも寄り添うことができる。

それは技術や知識の問題ではなく、心の問題だ。

だから、よりよい介護を提供するためには、従業員のケアから目を背けちゃならない。

ケアマネジメントは、従業員にだって必要ということだ。

まとめ

介護はしんどい。しんどいが解決策はある。それを解決できるのはリーダーではない。

よりよい介護を提供したいと思っているのは誰なのか?それは従業員ではなく、経営者のはずだ。

リーダーの育成と言えば聞こえはいいが、まずは自分が矢面に立って、現場の改善に努めるべきだ。

そして、介護の質の向上を目指すなら、まずは介護士の心が充実していなければならない。

つまり、よりよい介護の提供のためには、従業員に対するケアを真剣に考えることだ。

今急がれるのは、リーダーの育成ではなく介護士のケアマネジメントただひとつなのである。

読みたくなるブログ記事は危険だよ

色んなブログを見ていて思うのは、以下のような内容の投稿が多いということだ。

  • ◯◯をするための、△個の方法
  • 仕事ができない奴の口癖トップ◯◯
  • モテない男は□□をする

実際にこういう投稿があったという具体例ではないが、何となくニュアンスで汲み取って貰えるだろうか?

僕が思うに、上記のようなタイトルだったり内容を含む投稿は結構多い。

そして人気があって、そこそこバズッてたりもする。

なぜ人気があるのかというと、こういった投稿は、タイトルやあらすじからして、人間心理というやつを巧妙にくすぐり、読まずにはいられなくするテクニックを駆使しているからだ。

共通するテクニック

読んでみたいと思う、そのような人の心理に働きかけてくる記事は、当然のように人気が出る。

人気が出るから、研究され、やり方や具体的な手法というのもブログ初心者にまでわかるようにある程度シェアされてたりする。

だから、巷に氾濫する一般ブロガーの投稿にも、高度な心理テクニックを用いた記事が数多く存在する。

もちろん、一般ブロガーだけじゃなく、その道のプロやメディアの中からも、読まずにはいられない記事は数多く発信されている。

では一体、そのような記事は、どのような心理をついてくるのか?簡単に言うと、次のように説明することができる。

  • 人は、損をしたくないと強く願う生き物なのだ。

と、いうこと。

投資の世界なんかではわりと一般的であり、乗り越えなきゃならない心理の弱点だ。

儲かる可能性よりも損をするリスクを回避しようとする心理、ということもできる。

例えば次のような場面を想像してみてほしい。

  1. あなたは今、現金100万円を持っている。
  2. あるクイズに正解出来れば、2倍の200万円に増える。
  3. クイズに不正解なら、半分の50万円に減る。
  4. クイズに答えるかどうかは自由である。

このような状況に置かれた場合、多くの人がクイズには答えない、という選択肢を選ぶ。

200万円に増える可能性よりも、今持っている100万円を半分失うことの方が、心理的に重いのだ。

要するに、損をしたくないということ。

これが、儲かる可能性よりも損をするリスクを回避しようとする心理の概要だ。

損得勘定はお金に限らない

上記のことはお金にまつわる話だった。

ところが、ブログを読む読まないに関しては、直接的にお金が絡んでくるわけではない。

それでも同じような心理が働いているというのは、一体どういうことなのか?

それは、人の損得勘定はお金のことだけに限らない、ということだ。

お金以外にどのようなことに関して、人は損得勘定を働かせるのか。それは、情報だ。

情報は、もしそれが素晴らしい情報であれば、それを読むことによって自分が何らかの得をするかもしれない。

これは言い換えると、ある情報を読まないことによって何らかの損をしているかもしれない、ということになる。

ここでいよいよ話がつながってくる。

最初に書いた、巷に多く見られるブログ記事の傾向を思い出してみてほしい。

  • ◯◯をするための、△個の方法
  • 仕事ができない奴の口癖トップ◯◯
  • モテない男は□□をする

こういった類いのブログ記事は、まさに僕たちの心理の弱点をついているではないか。

この情報を読まなければ損をするかもしれない。そうやって、見出しの文章などでさりげなく危機感を煽りながら、巧妙に弱点をついてくる。

  • もしかして、モテない男の言動をやってしまっているのでは?
  • もしかして、仕事が出来ない奴だと思われていないか?
  • もしかして、現状より賢明な生き方を知らないのではないか?

弱点をつかれると脆いもので、心の中はいとも簡単に、損をするリスクという恐怖の心理に侵される。

まとめ

テクニックを駆使した発信者たちは、自分が作ったコンテンツがよりたくさんの人の目にとまるように、あらゆる罠を仕掛けてくる。

最後に、先述したクイズの場面をもう一度想像してみてほしい。

  1. あなたは今、現金100万円を持っている。
  2. あるクイズに正解出来れば、2倍の200万円に増える。
  3. クイズに不正解なら、半分の50万円に減る。
  4. クイズに答えるかどうかは自由である。
  5. その場に居合わせた、顔も名前も知らない男たちがこう言っている。「クイズに正解するための、たったひとつの手段を教えましょう」

こう言われてしまうと、あなたはもう彼らの話を聞きたくて仕方がないないはずだ。

もしかすると、クイズに正解して確実に所持金を2倍に増やす方法があるのかもしれない。

ここでこの人の話を聞かないと、きっと損をするぞ、ってね。

人生は、無駄と感じてからが勝負だ

意味のあることや価値のあること。何かをやるとき、そういうことを意識していると心から楽しむことができなくなる。

何かをやるっていうのは、次のようなこと。

  • 勉強する
  • ゲームする
  • 遊びにいく
  • 外食する
  • 仕事する
  • 生きる

など。

つまるところ、生きてくうえで必ず行う何かの活動のことだ。

それらのことについて、やる意味や価値について考えていると、何をするにも虚しくなってしまう。

  • これをして意味はあるのか?
  • これをする価値はあるのか?

何かを始める前にも、やっている最中にも、そんなことを考えて虚しくなる。

遊びに行きながらも、こんなことしてていいのかと思うし、勉強しながらも、こんなことしててもつまらない人間になるだけじゃないかと思う。

  • 勉強したところで、なんの意味があるの?
  • ゲームなんか時間の無駄じゃん
  • 遊びに行く暇があったら勉強しろよ
  • 勉強してる暇があったら仕事しろよ
  • 仕事ばっかりして趣味もないつまらない奴だ

もう、こうなってくると生きるのがしんどい。

実はこういった悩みを抱えて生きてきたのが、20代のこと。

10代の頃にちょっとだけヒッキーやってたりして、人より何歩か出遅れてる感があって、何とかしなきゃっていう焦りから、やたらと意味や価値ばかり考えてしまうようになったんだと思う。

いい歳こいて、つい最近までそんなことばかり考えては、人生を焦ってた。

これが20代の自分。

何もかも中途半端になってしまうバカ野郎だった。

30代になって、そんなバカ野郎もようやく変わりつつある。

10代20代の若者たちは、世間にはこんなしょーもないおっさんもいるんだなぁと思って、ぜひ勝ち誇ってもらいたい。

 全部無駄だから、没頭するしかない

僕が気づいた、充実した人生を送るのに必要な答え。何をやったって、全部無駄なんだ。それでもいいから、没頭するしかないんだよ、ってこと。

  • 何をするにしても、意味なんてない。
  • 何をするにしても、価値なんてない。

意味や価値を考えるとき、その先に望む理想的なゴールは、お金持ちになれるかどうか又は他人からの羨望が得られるかどうか、この2つのみだ。

このゴールが達成できるかどうかをイメージして、意味や価値を判断する。

ところが、そのようなゴールは一朝一夕に到達出来るものではない。

だから最初は勢いよくスタートを切れたとしても、次第に前に進めなくなり、止まってしまう。

ゴールに辿り着けないなら、今やっていることがすべて無意味で無価値なものになってしまう。

だからやめる。

道半ばでもやめる。

そして次の乗り物とサーキットを選び、またゴールに向かって走り出す。

その繰り返し。

子供の頃の自分を思い出してみると、いちいちそんな風に考え込んでしまうタイプではなかった。

やりたいことをやってたし、ちゃんと最後までやりきっていた。

クオリティはともかく、漫画のキャラクターを何時間もかけて模写したり何百時間も同じゲームをプレイしてたり、とにかく没頭してた。

意味や価値なんてどうでもよかった。今やっていることで金が稼げるのか、人から褒められるのか、なんてそんなことは考えたこともなかった。

そして今、僕が立ち戻るべきはそのような子供時代の精神性だ。

何かを始めるなら、意味や価値は考えない。途中で一歩引いて見る、ということをしてはいけない。

子供のように、ただ没頭する。

没頭するからこそ、気がついたときに、人より秀でた才能を身に付けることができるんだ。

僕はかつてのヒッキー時代に、ひたすらタイピングソフトにハマっていた。

何度も壁にぶつかりながらも、メキメキ上達し、気がつけば誰もが驚いてくれる実力を身に付けていた。

これはまさに没頭状態にあったということで、意味や価値について考える余地なんて微塵もなかった。

好きでやってたら、いつの間にか上達していたんだ。

人間誰しも最後には死んでしまう運命。

ってことは、究極的には、何もかもが役に立たない無意味なものってことだ。

元々無意味なものを意味のあることになんて出来やしない。出来ないことをいつまでも悩んでいるのは、それこそ無意味だ。

だから、意味や価値を考えてはいけない。

それでどうするか?答えは決まってる。

没頭するんだ。あれこれ悩まず、とにかくハマる。ハマり倒す。無駄と感じれば感じるほどに、やめてはいけない。

無駄に対する耐性を身に付け人生を心から楽しむためには、それなりのリハビリが必要だが、価値がある。

無駄と感じてからが勝負

今やっていることが無駄と感じられたら、そのときが成長のチャンス。

よろしいか。

無駄と感じてからが勝負だぞ!

「書きたいのに書けないって」その悩み、偽物だよ

ブログを書きたいのに、書けない。なんか、そういう人って多いのかな。

絵が描きたいのに描けないみたいな悩みにも通ずるものがある。

◯◯したいのに、◯◯できない。みたいな悩みは、僕が思うに本当はやりたくないんだよ。

いや、俺は本当にブログが書きたいんだよ!面白いこと、役に立つことを発信して、皆のことを応援したいんだ!とか言ってるなら、たぶん本音は後半の部分だ。

本音はブログが書きたいんじゃなく、皆の役に立ちたいんだ。

役に立つってことは、人から感謝されるってことだ。

その手段として、最も身近に感じられるものがブログだった。

だからブログを書こうとしているんだけど、そこまで自分の本音に気づけていないから、ブログを書くことが目的になってしまって、何を書いたらいいのかわからなくなる。

要するに、ブログを書きたいのに書けないって悩んでる人は、悩み方を間違えてるんだ。

ブログが書けねー!ネタがねぇーよ!とか言ってる前に、自分の心と向き合ってみればいい。

そこで見つけた本心が、やっぱり他人の役に立ちたいってことなら、すなわち他人からチヤホヤされたいっていうことだったなら、ブログを書くことじゃなく、何をすればチヤホヤされるのか考えてみればいい。

ゲームが好きなら、人気のあるゲームを圧倒的にやり込めば、いちいち文章の書き方や構成に悩まなくたって、やり込んだ結果の画像でもアップしとけば、それなりにモテるはずだ。

 

どうせ悩むなら、ブログが書けないとかいう偽物の悩みじゃなくて、どうすればチヤホヤされるかという本音の悩みに焦点をあてて悩んでみればいい。

たぶん、物事が違う視点から見えてくるよ。