オモロ・トリガー

クロノ・トリガーはオモロい。だからオモロ・トリガー

みんなが好きなことばかりやってたら、社会が回らなくなる……のか?

イケハヤさんの影響は強く受けていて、わりと自由気ままな精神で生きているオモローだよ。

今回は以下のエントリーを見て思ったことを記事にしてみました。

www.ikedahayato.com

ここで主張されていることは、これからの時代をより賢く生きていくための基本的な心構えとでもいうべきものだと思う。

僕は今は会社員として生活をしているんだけど、次のような考え方には大変共感するものがある。

  • そもそも、時間を切り売りするようなワークスタイルからは卒業すべき。学生のバイトじゃあるまいし。
  • 変に人間ががんばるから、イノベーションが起こらず、生産性も上がらないということを理解すべき。

まさにその通りだなぁと思う。

ところが、現実の優しい世界に生きていると、上記のような言葉や表現は反発を食らいやすいところがあって、現実の人間関係で主張していくのは難しいなと感じていたりもする。

あ、優しい世界というのは、皮肉です。

表面上はお互いを気遣いあって、辛いことや苦しいことがあっても「みんな大変なんだから、頑張らなくっちゃ」なんて思っちゃって、単なる束縛を仲間意識という美徳に変換しちゃったりなんかしている現実の優しい世界。

そこで、「そんなに頑張ったってさ、生産性もあがらないし無駄だよ。意味ないことはやめて、もっと気楽にやりなよ」とか言っちゃうと、サービス残業しまくりで何とか仕事をこなしている同僚の皆から総スカン食らうこと間違いなしだ。

現実はむしろ反対で、残業している同僚や上司を見ると、「あぁ、あいつ今日も頑張ってるなぁ。俺も頑張ろう」っつって、必要以上に頑張っちゃう。

もうさ、その人たちの中では仕事を「頑張ること」や、「しんどいけど皆で乗り越えていく」ってことが、今のこの社会の常識であって、大人の対応であって、当然のこととして疑問にすら感じていないんだよね。

彼らが言う「頑張る」という言葉の中には、仕事はしんどいもので、人生は苦労の連続で、みんな同じようにしんどい思いをしているんだから、自分だけ楽に生きようなんて虫のいいことはない、と、そういうニュアンスが多分に含まれていると思う。

だから、みんなが頑張る。

だから、みんなで頑張る。

それによって、生産性は下がり、時給も下がっていくというのに。

だから、僕は会社員ではあるものの、彼らのように「頑張る」ことが出来ない。

正確には僕もがんばってはいるんだけど、彼らが言う「頑張る」とはまた違うニュアンスでがんばっている。

たまに残業していると「頑張ってるね。無理しないでね」とか「仕事師だね」なんて声をかけられるけど、僕からすると「頑張ってるね」は心外だし、余計なお世話だ。

僕はやりたいことをやっているし、やりたくないことはノラリクラリと避けて通ってるつもりだ。

あくまでも、自分がやりたい仕事をやりたいようにやっているだけ。

自分のために、好きなことをやっているだけなのに、「頑張ってるね」なんて言われると、僕が頑張っているみたいじゃないか。

彼らのように、しんどい気持ちを耐えてまで時間を切り売りして、会社に尽くしているわけじゃあ絶対にないのにさ。

そんなわけで、僕はイケハヤさんの主張には全面的に賛成なのである。

ただし、一点だけ疑問はある。

果たして、このような考え方は「介護・福祉」の分野においても有効なものなんだろうか?と。

介護・福祉は特殊な世界?

介護や福祉のサポートを必要としている人は現実にけっこう存在している。

なかなか表に出てこないだけで、僕らが最新のテクノロジーやサービスに触れているあいだも、一般社会からはほぼ隔離された特殊な世界の中でひっそりと生活している人たちがいる。

そういう人たちに必要なのは、21世紀らしい最先端のテクノロジーやオピニオンではなくって、単に寄り添うことだ。

介護を必要とするのは高齢者だけど、福祉にまで抽象度を上げてやれば老若男女すべての人が対象となる。

彼らにも人生があって、当然僕らと同じように1日24時間の生活がある。

彼らには規則正しい生活や食事、睡眠の質の向上と言ったイマドキの意識の高い人たちが実践するライフハック的な発想なんて微塵もない。

ただただ、今までの人生の延長線上で生きていくことしかできない人たちだ。

それは当然のことで、彼らは本を読まないし、当然インターネットに触れることもない。

だから、過去の自分の経験から、今や未来を生きていくしかないのは言うまでもなく当たり前のことだ。

そして、彼らはそのことに疑問を抱いていない。

彼らはイマドキの意識の高い人たちのように、人生をよりよくしよう、社会を、国を、世界を、地球を、よりよくしよう、と、そんな風には絶対に考えない。

ただただ、過去の生活があって、これからも同じように続いていく。それだけだ。

そして、それはそれで別にいいことだと僕は思う。

先述したイケハヤさんの意見もそうだけど、自由に生きようってのは、基本的には人間の多様性を認めることからすべてが始まるものだ。

多様性を認めないということは、レールに乗った人生を生きよということになって、すべての意見が矛盾してしまう。

だから、自由に生きるってことは、自分以外の多様性のすべてを肯定するということになると思う。

そうすると、途中に書いたけど、僕の同僚たちが必至こいて頑張っている現状というのも、彼らが本当にそう望むのなら肯定されなきゃならないものだ。

ただし、介護や福祉を必要としている人たち、とは違って、僕の同僚たちは自分で考えて、行動して、新しい価値観を受け入れる、という手段を選ぶことも出来る。

僕がもったいない生き方をしているなぁと思うのも自由だし、彼らがその生き方を選ぶのも自由だけど、知らず知らずのうちに何者かに洗脳されて、知らず知らずのうちにしんどい人生を選択しているのだとしたら、僕はなんとか彼らを軌道修正してやりたいなぁとは思うのだけど、それもこれも、あれもこれも、とにかく全部自由だ。

しかししかし、福祉のサポートを必要としている人たちには、そもそもこういったある種の哲学は一切関係がない。

何をどう深く考え込んだって、彼らが必要としているのは単に過去の自分が必要としたもので、これからの人生もすべて過去からの延長線上に存在していなければならない。

そうでなければ、途端に対応力を失って、パニックに陥ってしまうから。

意識の高い人は福祉に向いてない?

福祉のサポートを必要としている人というのは、それこそ人間の多様性を認められなきゃとても関わっていけないような、本当に個性的なキャラクターをしていて、たぶん業界の外の人からは想像も出来ないような生活をしてる。

このような人たちと関わっていくなかで、「意識の高さ」というのは結構邪魔になる。

特に面倒なのは、意識の高い人がまき散らす「おせっかい」だ。

意識の高い人は、よりよい生活を実現するためにありとあらゆる情報にアクセスして、昨日より今日、今日より明日といった具合に、どんどん環境を変化させていく。

それを可能にするのは、彼らに備わっている高い知性と適応力だ。

高い知性と適応力があるからこそ、新しい考え方や行動、環境の変化に柔軟に対応していくことが出来る。

ところが、福祉のサポートを必要としている方々がそのような柔軟性を発揮することは難しいことが多い。

こちらが良かれと思ってしたことも、彼らにとってはすべて余計なお世話であって、こんなことをされるなんてもうこんな所にはいたくない、という考え方をしてしまう。

だから、おせっかいを焼きたくなっても、あくまでもすべては彼らの個性であって人間の多様性なんだと思って、あたたかく見守っていく心のゆとりが必要だ。

福祉のサービスを受ける被擁護者の方々が求めているのは、勢いのある斬新な変化よりも生活の安定だ。

このような世界で仕事をしていくのに向いているのは、愚直に被擁護者と向き合うことができて、やたらに思考の抽象度を上げず、具体的な生活を支援していける人間である。

意識が高い人というのは、必然的に思考の抽象度が高くなっていくものだ。

人から社会へ、社会から世界へ、世界から地球へ、地球から宇宙へと、思考の幅が拡がっていく。

福祉に必要なのはせいぜい社会に対する考察までだ。

そして、被擁護者にとっては、社会に対する考察すらどうでもいいこととなる。

あくまでも、彼らの生活を具体的に支援できるかどうかに尽きるのである。

生産性も効率もない世界?

このような世界では、生産性もクソもないという話になる。

まぁ、クソは毎日生産されているけど、それは別件だ。

そもそも、特別に何かを生産しているわけじゃない。

1日24時間の生活を、求める人の数だけ支援していく。それだけだ。

どれだけ生産性を上げようと、効率を上げようとも、1日24時間、1年365日の生活を圧縮することは出来ない。

何をどうしたって、絶対に24時間の継続的な支援が必要だ。

そして、それが可能なのは誰か?って、それはもう言うまでもないことだ。

ロボットやAIに支援を任せることも将来的には可能になるのかもしれないが、24時間ある生活のすべてをロボットに任せてしまっていいものか?

ひとりでは生活できない爺さんや婆さん、兄ちゃん姉ちゃん、あの子とその子がいたとして、「ロボットが見てくれているから大丈夫」と言ってしまっていいものか?

どうしたって、24時間ある彼らの生活には、常に人間が関わっていなければならないのではないか?

世界をよりよくしていくのは、「意識の高い人」たちだと思う。

それは間違いない。

けれども、意識の高さも低さも関係なく支援を必要とする人たちがいて、意識の高さも低さも関係なくその人たちを支援する人たちがいる、というのは大切な事実だ。

働き方改革やイノベーションといった現代的な文句をうたっているとき、そのような人たちの存在が忘れられてしまっているような気がしてならない。

まとめ

さぁここまで勢いで書いてしまったのだけど、僕は結局何が言いたかったのか?

ぼんやりしているけど、次のように表現出来るかもしれない。

「ひとりでは生きられず、人からの支援を必要としている人がいるのに、自分のことばかり考えていていいのだろうか?」

ん?でもなんかこれって、僕が残念に思ってる同僚の彼らと似たような思考だな。

社会には苦しんでいる人がいるんだから、その人たちを支援するためにも、自分が楽しむことばかり考えてちゃいけない。彼らもまた、社会の一員なのだから!って。

あぁ……あかん、完全に仲間意識という美徳の束縛にハマってた。

これではまさしく、イケハヤさんが言うように思考停止状態だ。

あぶないあぶない。

みんながやりたいことをやって生きていくことができる社会と言ったとき、そこには介護や福祉のサポートを必要とする人たちも含まれているんだ。

中には、どうせ無理だからと諦めて現状を受け入れるしかない人だっているかもしれない。

まずは僕らがしっかりと人生を楽しんで、「やりたいことやってりゃいいんだよ」という価値観を当然のことと思えるようになれれば、本当の意味ですべての人が自由に生きられる社会がやってくるのかもしれない。

みんながやりたいことだけやってたら社会が回らなくなる?むしろ反対で、みんながやりたいことやれる社会だからこそ、社会が回り、全ての人が自由に生きられるんだ。

要するに、介護・福祉の世界にだって、意識高い人がもっともっと必要なんだってこと。

がんばろっと。(頑張るわけじゃない)